思いを共有する仲間と長崎に拠点をつくりたい

長年、脳神経外科医として、「救急」「リハビリテーション」の2つの分野の医療に携わってきた私は、
いつの頃からか思いを共有する仲間と長崎に拠点をつくり、自分たちの思う医療のあり方を表現したいという
夢を抱くようになっていました。夢の第一歩として実現にいたったのが、長崎で唯一の回復期リハビリテーション専門病院
「長崎リハビリテーション病院」の開設です。

開院は2008(平成20)年2月1日。そこから遡ること18年前の1990(平成2)年に、私は長崎市内の
老舗の救急病院である「十善会病院」で脳神経外科・リハビリテーション科部長としての新たなキャリアをスタートさせました。長崎大学病院から着任した当時は、まだ救急救命後のバックアップ体制が不十分な時代であり、
非常に苦しい思いをしたものです。 

バラバラだった救急現場 心と心を通わせる取り組み

当時、クモ膜下出血の患者さまの多くは、諫早市にある脳外科病院に紹介されるという状況でした。
これをどうにかしようと、脳卒中、頭部外傷を専門に「24時間態勢を整え、いつでも、どこからでも、どんな状態でも断らず、積極的に引き受ける」ことを病院内で確認。他の救急関連病院や救急隊に十善会病院へ紹介してもらえるよう伝えていきました。

この頃「救急隊員」と「医師・看護師」のあいだに、信頼関係はゼロだったといっても過言ではないでしょう。
現場がバラバラであっては、各々がいくら頑張ってもどうにもなりません。救急隊との懇談会をもち、とことん腹を割って話をした結果、お互いに「大変なんだ」という理解が深まっていったのです。

1992(平成4)年10月、市内の主だった病院に勤務する若手の医師が集まり、医師・看護師・救急隊員などで構成する救急現場の会「長崎実地救急医療連絡会」を結成し、救急現場の正確な実態調査を行いました。5年後の9月には、
医師会と消防局、そして僕らの会の三者で構成する、「長崎救急医療協議会」の設立にまでいたりました。

あらためて気づかされたリハビリテーションの意義

十善会病院に赴任して数ヶ月経った頃のことです。
「いつでも引き受けます」と救急隊や他の救急病院の医師たちに大見得をきったものの、使えるベッドは15床しかありません。必要に迫られる形で浮かんだのが、患者さまをとにかく早く動かし寝たきりにしないという発想でした。

当時、私は国立療養所長崎病院のリハビリテーション科医長であった、浜村明徳先生のところへ相談に行き、これをきっかけに先生のきめ細やかな助言、支援を受けることに。「救急の現場で頑張っている我々のところこそ、たとえ忙しくても、リハビリテーションをしっかりした形で確立していかなければならない」と考えるようになったのです。

脳卒中は一般の病気と異なり、救命後に残る麻痺などの障がいが大きな問題となります。
それは点滴や薬、手術で治るものではなく、徹底したリハビリテーションが必要です。

救命後に障がいが残る患者さまを前にして、どうにもしてやれなかった切ない思いと、それでも何とかしていかなければならないという現実。その狭間で共に悩み、努力してくれた仲間や指導、応援してくださった先輩がおられたことが、
私がリハビリテーションの世界にのめり込む大きな要因になったと思います。

坂の町の課題 長崎斜面研究会の設立

救急病院を自立で退院または転院した65歳未満の方、79人について3年半の追跡調査を行ったのは、
1993(平成5)年のことでした。調査の結果、退院または転院後23%の人が自立できなくなっており、
脳神経外科を自立して退院した患者さんにいたってはさらに悪い、約40%近くが要介助となっていたのです。

また、訪問看護ステーション12施設にお願いしたアンケートの結果では、ほとんどが「訪問型サービス」を利用しており、デイケアやデイサービスなどの「通所型サービス」の利用率が少ないこともわかったのです。理由は階段や坂道。
長崎のもつ「斜面地」という特異性が、大きな障壁となっていました。せっかく退院しても、家に帰ったら悪くなってしまう患者さんがいる……。医師や看護師は、これでは何のために一生懸命やっているのかわかりません。
このことをきっかけに1997(平成9)年、福祉工学を目指されていた長崎大学工学部や建築関係の先生方と
「長崎斜面研究会」を発足しました。

口を大切にすることが人としての尊厳を守る

「死んでもいいから食べさせて」。
鼻から管を入れることを拒む患者さんからこう言われたとき、かつての私にはその切ない気持ちに答えるすべはなく、
またあまり重要なことだとも思っていませんでした。しかし別の患者さんが、植物状態から手を握り返すまでに症状が回復し、ついにはチューブなしで口から食べられるまでになったという症例がありました。
食べたいという意欲を見せていた患者さんに対して、担当の看護師が綿棒を凍らせたものを口の中に入れるなどして一生懸命口の中のケアをしたことで、回復へと導いたのです。

これらをきっかけに、私は口から食べるということについて勉強に取りかかりました。
そのころ出会ったのが歯科医師の角町正勝先生です。先生はもともと小児歯科専門の開業医で、すでに在宅訪問歯科診療を行い、食べられない患者さんに対して、もう一度口から食べてもらおうと試行錯誤で「口のリハビリテーション」を頑張っておられました。

「人間は口から食べられるようにすべきだ。口をほったらかしにしていたら、だめになってしまいます。手足と同じ」。
先生のこの言葉に私は感銘を受けました。その後、われわれ救急の会の主だった医師、看護師、歯科医師が一同に会し、組んだシステムが「長崎脳卒中等口腔ケア支援システム」です。
美味しいものを1人ではなく、住み慣れた家で家族みんなと楽しく話をしながら食べる……。
本来あるべき人間性を、患者さんがどのような状態であっても目指すことが、私たちの目標であり理想です。
「長崎リハビリテーション病院」の運営にあたっても、この考え方は大切な基盤のひとつになっています。

完全には整わないままの救命後のバックアップ体制

「長崎実地救急医療連絡会」の設立、そして「長崎斜面研究会」の活動など地域医療が少しでもよくなればと、
私は仲間とともに長崎でさまざまな取り組みを行ってきました。しかし、救命後の患者さんをしっかり護るための
「リハビリ専門病院」に関してはどうしようもありませんでした。まずもって、長崎では県庁所在地に救命救急センターが長い間存在せず、長崎大学病院に設立されたのが2010年と数年前のことです。

リハビリテーション専門病院もほとんどなく、脳神経外科病棟では看護師や理学療法士が必死になってリハビリを頑張ってくれていたのです。救急で頑張ってもその後のバックアップ体制が整っていないため、非常に悔しい結果を生むこともありました。家族の方から「助けてもらわなければよかった」と言われたこともあります。

夢はもち続ければ必ずかなう

大きなターニングポイントが訪れたのは、私が49歳のときでした。
高知県にある「近森リハビリテーション病院」の初代院長であり、「初台リハビリテーション病院」理事長の石川誠先生に、近森リハビリテーション病院の院長をやって欲しいとお話をいただいたのです。
同病院は当時からすでに完成された、全国でも有数の回復期リハビリ専門病院でした。
私は救急病院でのリハビリの大切さを訴え続けてはきたけれども、実際にはリハビリ専門病院での勤務経験もなく、ましてや脳神経外科医。お話をいただいた当初は、役に立てるようなことは何もないと思いました。しかし、近森というひとつの法人には、私がずっと大切だと言ってきた「救急から在宅まで」のシステムがすべて整っています。
迷い、戸惑い、苦悩した結果、「近森のようなリハビリ専門病院をぜひとも長崎につくりたい、つくるぞ!」という思いを胸に、高知に渡ることを決断しました。

院長として赴任して3年。当初の約束だった任期を過ぎても近森でやり残したことは多く、
結局5年間勤務させていただくことになりました。この間、とにかく私は多忙を極めていました。長崎に戻りリハビリ専門病院をつくるなどは遠い夢の中の話だと思っていたそんなある日、青天の霹靂のようなお話が舞い込んできたのです。
長崎の街中にある某病院を引き継ぐにあたり、すべてをあなたに任せたい」。
夢はもち続ければ、必ずかなうときが来るのですね。

私たちが目指したのは「病院らしくない病院」

新病院は急性期(救急)病院等と明確に機能を分化、完全にリハビリに特化した「回復期リハビリ専門病院」としました。急性期(救急)病院の場合、主な目的は患者さまの命を救うことですが、回復期に特化した当院の場合、
退院後の在宅または施設への移行に向けた自立支援が大きな役割となります。また回復期専門にすることで、医師や看護師、救急隊など救急の現場でがんばっている仲間を支えたい、そしてさらには地域医療を支えるリハビリの拠点にしたいという思いがあります。

これらの目的をもとに私たちは議論し、その結果を踏まえた上でソフト・ハードの両面においていくつかの核となるコンセプトを定めました。

生活に沿った支援へ導く画期的なチーム医療

まずソフト面です。
これはもっとも特長的と言えますが、当院には始めから医局・看護部・リハ部といった一般的な病院に見られる
「縦割り組織」がありません。なぜかと言うと、縦割りの組織ではどうしても部と部の間に壁が生じてしまうからです。
その代わり、全職種(多職種)の専門スタッフが臨床部所属の「病棟専従制」を取り、1人の患者さまに対して10人ほどのスタッフが担当者チームを結成して支援に当たる「患者さま中心の協力型モデル」を構築しています。

これは全国的に見ても画期的なシステムと言って良いでしょう。
この病院の土台はチーム医療で定評のある近森リハビリテーション病院ですが、縦割り組織の見直しという点に限っては
当院のようにゼロからの立ち上げでなければ果たせませんでした。その分、チャレンジではありますが、患者さまの生活に沿った支援を行うためにはこのシステムが必要です。また、専門職がチームの一員として加わることで、医師や看護師の負担が軽減され医療の質自体に向上が見込まれると考えています。

このようにマンパワーで支えていくという独自の構造、そして理想とするチーム医療は、大前提として充分な人員配置を
可能にする職員数の雇用、さらには職員1人ひとりの技術・知識面の向上と、社会性という意味での高い人間力が伴わなくては成立しません。ただでさえ開院して8年と歴史が短く、専門職としての成熟度が高まるのはまだまだこれから。
看護師長クラスのマネジャーなど専門職のリーダーを各病棟に配置し、常日頃から技術・知識面の教育体制を整えています。

人員配置においても、1病棟48床に対して90人近くの専門職を配置、特に介護福祉士に関しては看護師のパートナーという位置づけにありますので積極的に採用しています。高額な医療機器は導入せず、その分の予算を人材に充てるようにしています。

また、チームの中で医師はチームリーダー。指示を出すのはあくまでリーダーである医師ですが、職員には勤務年数や職種に捉われず互いに問題提議や助言を行い、どんなに細かい事案であっても議論し合う意識を持つようにと伝えています。議論を深めることは成長にもつながります。当たり前のことかもしれませんが、やはりチーム医療の基本にあるのはコミュニケーションなのです。

ハード面では、地域に開かれた病院であること、患者さまが入院によって地域生活から完全に隔離したような状況にしないこと、もしも当院で治療が困難であると考えたら即座に転院していただくが、そこでの治療が山を越えたらまた我々が引き取ることなどを決めました。
「地域に開かれた病院」という点では、建物の外観を一見しただけでは病院と思えないようなデザインにしましたし、
1階には大きな窓を配置したスペースを多く取り入れ、地域の方々が気軽にコーヒーを飲んでいただけるオープンカフェを設けました。

口のリハビリテーションで寝たきりの高齢者を減らす

病院開設以前から長年にわたり重要視してきた「口のリハビリテーション」。
これに関しても、当院では各病棟にいる歯科衛生士が徹底的に患者さまの口腔ケアを行うほか、長崎市歯科医師会と連携を図り、歯科の方々がいろいろな専門職とともに働く場を提供する「医科歯科連携」を進めています。
当院には鼻から管を入れっぱなしの患者さまはいません。
胃ろうの患者さまも年間4~5人程度ですし、経管栄養の患者さまには、口から食べる訓練を最低3カ月は行います。
どのような障がいがあっても、最後まで人としての尊厳を守り、“諦めないで口から食べる”ことを大切にしたいのです。

口のリハビリシステムを構築することは、寝たきりの高齢者数を減らすことにもつながると確信しています。

開設から8年 クリアすべき課題と問題点

長年の悲願であった「長崎リハビリテーション病院」の開設から8年が経ち、
病院経営を軌道にのせるという第1ステップはクリアすることができました。これに続く取り組みのひとつとして、
退院された患者さまとそのご家族の生活を支える態勢をさらに強化するため、
2014年春「在宅支援リハビリテーションセンター」を開設しました。
また今年、立ち上げた新組織が地域リハビリを積極的に推進する地域リハ推進室「銀屋クラブ」です。
院内の専門職スタッフをはじめ、退院された方など院内外のボランティア活動の窓口機能も、ここに集約しています。
スタートしたばかりの組織ですが、少しずつ取り組みを進めている状況です。

今後は在宅診療にも積極的に取り組んでいきたいところですが、
自分たちの力だけでは、残念ながらまだまだ厳しい状況です。こういった部分は他の病院や施設とチームを組み、
お互いに質を高め合えるようなメカニズムを構築していければと思います。

混とんとした時代を乗り越えるために

この20年で随分と医療界も変わり、かつて両極端の医療だと言われていた「救急」と「リハビリテーション」の関係も近接したところにまで進化しました。一方、医療技術の進歩によって多くの命を救えるようになりはしたものの、結果として足腰が立たず家族と一緒に暮らせない高齢者が増えてしまったという現状も見逃してはいけません。

「地域医療連携」についても、今までのようにひとつの病院で治療してダラダラとした入院となり、寝たきりを
つくってしまうような医療のあり方ではなく、急性期(救急)・回復期・生活期のそれぞれステージごとに役割を
分化させ、地域完結型に転換していこうという方向に進んでいます。

団塊の世代が75歳以上となる2025年。
これから先、ますます大量の要介護者が見込まれ、わが国は混沌とした時代を迎えるでしょう。
今までのように寝たきりを増やす医療では立ち行かなくなることは、もはや明白な事実です。
国は対策として「地域包括ケアシステム」の構築を進めており、国民には医療・介護サービスへの依存から脱却するという意識改革や、住民と住民が互いに支え合う仕組みづくりが求められています。

高齢者や障がい者が、住み慣れた町で地域の一員として安心した暮らしを続けられる…
私たちは、こういった理想的な地域のあり様、または医療のあり様というものを、多くの医療関係者や受け皿となる地域の皆様に広く理解していただくための取り組みを、早急に推し進めたいと考えています。
長崎リハビリテーション病院で障がいと向かい合い、闘っている患者さんや家族の方々が一日でも長く、少しでも早く、生き生きと安心した地域生活を送れるようになる。
課題は多く発展途上ではありますが、これからも仲間とこの夢を共有し目の前の課題を一歩ずつ乗り越えていきたいと思います。また、私自身も常に経営者としての自己評価を怠らず、様々な試みがどのように効果を上げているのかを慎重に見極めていくべきと考えています。

リハビリテーションは救急医療とともに、地域を支える重要な社会基盤です。地域の皆さまにはこのことを認識していただき、さらに私たちも長崎の医療界全体で豊かなチーム医療を表現していければと願っています。
理事長著書の紹介
長崎発 地域包括ケアとリハビリテーションーこれからの地域医療のかたちー
本書は、著者が近森リハビリテーション病院の院長を辞し、長崎の地にリハビリテーション専門病院を立ち上げるために動き始めたところから、その後の10年間の取り組みについてまとめた、未来につながる記録です。
詳細はこちら
理事長

栗原正紀

Masaki Kurihara
1952(昭和27)年佐世保市生まれ。長崎大学医学部卒業後、長崎大学脳神経外科講師、十善会病院脳神経外科部長、同副院長、近森リハビリテーション病院院長などを経て、2006(平成18)年、社団法人是真会理事長、2008(平成20)年、長崎リハビリテーション病院院長に就任。医学博士。日本リハビリテーション病院・施設協会会長、リハビリ医療関連団体協議会代表、大規模災害リハビリテーション支援関連団体協議会代表、長崎県脳卒中検討委員会委員、長崎市地域包括ケア推進協議会委員。